深谷市ピアノ教室 講師紹介

 

幼少の頃 

長野県生まれ、姉と弟の3人兄弟。

父は営業職のサラリーマン。

社会性のある4つ年上の姉とやんちゃな弟の間でおとなしいこどもだった。

父はハーモニカで何の曲でも吹いてくれた。

母はよく歌を歌ってくれたり子供達の絵を描いてくれた。

姉が習っていたピアノを習い始める。

 

寂しい小学生時代 

小学校にあがると、母親が働きに出るようになった。

家に帰っても母がいなかったことをとても寂しく思っていた。

「友達の家ではいつもお母さんがいるのに、どうして家だけはいないのだろう、きっと私の家は他の家よりお金がないからだ」

と、劣等感のようなものも持つようになった。

母は苦労性で、よく働き、家にいても手の掛かる幼い弟につきっきりでとても忙しそうだった。

疲れているような母の表情、そんな時は「お母さん、幸せ?」と尋ねる。

すると「幸せよ」と言って笑顔を作ってくれた。

笑ってくれるのを知っていたから。

母の笑顔が見たかった。

そんなやり取りが今でも鮮明によみがる。

「お母さんが家にいなくて寂しい、家にいて欲しい」という本音は決して言えなかった。

母を煩わせてはいけないと、抱っこをねだるのさえ我慢した。

 

 

オルガンで練習

そのうちピアノブームが訪れ、クラスの女子の半分以上がピアノを習いだした。

私は母の嫁入り道具のオルガンで練習していた。

友達とバイエルの進度を競い合い、弾けることが楽しくなっていった。

レッスンで丸をもらうのが嬉しくて、1回のレッスンでたくさんの曲をもっていった。

それに何より先生の家でグランドピアノを弾くのがとても楽しかった。

 

ピアノがきた!

小学校中学年になったが、家の楽器は相変わらずオルガンだった。

私の心の中には常に「私の家はお金がない」という気持ちがあったので、両親に「ピアノが欲しい」とはとても言えなかった。

けれど12月の寒い日、学校から帰ると家に戻るとピアノがあった!

この日の喜びは今でも鮮明に覚えている。

 

ピアノが友達、素敵な先生との出会い

ピアノを弾くのがとても楽しかった。母がいない寂しさも忘れられた。

そして音楽好きな両親のレコードの中に、リストの「愛の夢」があり、この曲を聴くのも楽しみの一つだった。

リストはピアノを続けた要因の一つかもしれない。

そのころ習っていた先生は、学校教員を引退してピアノ教室を開いていたとても優しい先生で大好きだった。

いつも先生に褒められるのがとても嬉しかった。

 

合唱の楽しさ

小学校6年生になり、とても歌の上手な音楽の先生が赴任して来て、その先生が作った合唱クラブに入り、合唱の楽しさを知った。

音楽の先生も大好きで、みんなで先生のお家に遊びに行かせてもらった。

先生の独り住まいのアパートにあったレコードとカセットテープの量の多さに驚きたくさんの刺激をもらった。

 

合唱に燃える

合唱部の顧問の先生の歌の上手さに圧倒され即座に入部。

当時のクラス担任の先生はすべてのことにとても厳しく、クラスの雰囲気も悪かった。

でも音楽の先生はとても温かかった。

授業が終わると急いで先生のいる音楽準備室に行き、先生と色々な話しをした。

歌もさらに好きになり、毎日一生懸命練習した。

また、音楽会でのクラスのピアノ伴奏には毎年選んでもらえ、市内合同音楽会では学年伴奏をさせてもらえた。

300名の大合唱の伴奏の緊張感と醍醐味は今でも忘れられない。

そんな経験から自分に自信が持てるようになっていった。

3年生の時には合唱部の部長になり、Nコンで入賞したくて先生と皆で頑張る日々を送った。

 

母に遠慮

ピアノは小学校6年の時、市街にある先生を紹介され、その頃から電車で毎週一人で通っていた。

母に経済的負担をかけるのが悪く、月謝袋を母に渡すことをためらったのを記憶している。

この頃から仕事で遅い母に替わり、姉と交代で毎日夕飯の支度をするようになった。

それは高校3年まで続いた。

 

発表会はショパン

発表会ではいつも自分で曲を選んでいた。

中学1年からいつもショパン!

ハーモニーの繊細さが大好きだった。

思春期の葛藤を音楽にのせていたかもしれない。

そして母もピアノの発表会で私がショパンを弾くのを楽しみにしてくれていた。

 

音大進学への反対

県立高校入学。

小学生の頃から音楽大学への憧れはあったが、母は私達に市内にある短大の進学を望んでいたようだった。

そんな頃、ピアノの先生から音大に行くことを勧められ、東京の先生を紹介してくださるとの話しをいただいた。

そのことを意を決して両親に話した。

すると父が猛反対。

初めから期待はしていなかったが、それ以来二度と自分から‘音大‘という言葉を発することはなかった。

 

母の頑張り

子供も好きだったので、保育士になろうか、と漠然と考えながら過ごしていた。

2年生の時はバンドを結成し、文化祭でライブをしたり、高校生クイズに出場したりして、音大への気持ちを諦めようとしていた。

けれどピアノは毎日弾いていた。

気持ちを音に乗せて弾くことはやはり好きだった。

そんな中、高校2年の終わり頃、突然「母から音大へ行っても良いよ」との言葉が!

当時両親の間で何があったのか知る由もなかったが、そこから、音大準備に取り掛かった。

準備期間としてはとても短く、そして浪人は許されない。

そして音楽大学のピアノ科に入学。

後で知ったことだが、母も着物のセールスで成績をあげ、そのおかげで私達を東京の大学に進学させてくれたのだ。

 

姉との東京での共同生活、そしてヨーロッパへ

大学時代は、東京の大学を卒業し社会人として働いていた姉との二人暮らし。

東京での生活、周りには華やかな大学生活を送る友人は大勢いたが、そんな華やかな東京暮らしとは縁がなかった。

ピアノの練習とアルバイトに明け暮れていた。

しかし貴重な想い出がある。

それは大学での演奏旅行だ。

ヨーロッパ何国かに行き、マーラーの千人の交響曲などを歌った。

初めての海外はショパンの出身地ポーランド!とても感動的だった。

ポーランドでは古都クラクフの大学生との共演やドイツでも地元の大学生との共演でベルリンフィルハーモニーホールで歌った。

またオーストリアではウィーン楽友協会での演奏させてもらったことは一生の宝物だ。

ヨーロッパの歴史深い街並みと憧れの作曲家の生家や生前住んだ町で過ごした日々は今でも心の中に宝石のように輝いている。

また、衝撃的だったのは、ポーランドでアウシュビッツに行ったことだ。

世界の歴史上最も悲惨な出来事ではあるが、重要な1ページを目の当たりにしたことは、同じ人間として生きるという意味を深く考えさせられた貴重な出来事だった。

大学4年生では大学の学内演奏会に選出され、卒業後は長野県新人演奏会にも出演させてもらう機会に恵まれた。

 

ピアノ講師に

卒業後はヤマハ音楽教室のシステム講師とヤマハピアノ個人講師として、長野に戻り3年勤めた。

グループと個人合わせて80名程の生徒を任された。

まだ新人とはいえ、3歳から大人の生徒を任され毎日必死に働いた。

初めて教えたグループレッスンの生徒達の顔は今でもはっきりと覚えている

子供は好きだったけれど、こんなに無邪気で可愛いいのか、と驚いた。

その時の可愛い生徒達との心温まるレッスンは良い思い出だ。

私生活では長野の混声合唱団に入団した。

その合唱団はアマチュアながらコンクールに出演するほどの本格的な合唱団だった。

そこでの団員は一線で活躍する社会人で構成されており、幅広い仲間との交流は、社会人としてピアノ講師の枠を超えとても良い経験になった。

その後26才の時に結婚。

埼玉県に移り住み、ヤマハ音楽教室や個人の楽器店などで、3歳から70代の生徒さんを教えた。音楽大学付属中学や音楽専門学校、音楽大学へ進学した生徒さん、また保育士、小学校教諭を目指す方などを含め延べ100名程を指導。こちらでは9年ほど働いた。

 

心について考える

生徒さんの中に、学校で嫌なことがあったことをレッスン中に何かを思い出して泣き出してしまう子、こちらの話しがよく理解できない子(発達障碍の子)がいることで、人間の心理に強く興味を持ちはじめた。

 

障碍者学童保育指導員

順調な毎日だったが、もっと広い視野を身に付けたいという思いと発達障碍の子供達の理解のため、自宅以外のレッスンを辞め、障碍者学童保育の指導員としても週3日働かせてもらった。

学童の中に、とても音楽が好きな女の子がいた。

その子の耳元で歌ってあげると、とっても喜んでくれ、一緒に歌いながらダンスをして心を開いてくれた。

その輪が広がり、他の子の表情や雰囲気が明るくなっていった。

音楽の底力を強く感じた。

そのことが後押しとなり、音楽療法の勉強をしようと決心する。

 

音楽療法

自宅のレッスンの傍ら、NPO法人の音楽療法士育成講座生として勉強した。

そこでは寝たきりの高齢者の枕元で行うセッションのアシスタントや知的障碍者施設や子供の音楽療法現場などでの経験を積んだ。

3年目になると音楽療法学会で研究を発表する機会に恵まれた。

また当時アシスタントとして入った障碍者福祉施設には、今現在も音楽療法士とピアニストとして働いている。

 

子供ができない・・

子供は授かりもの、ずっとそう考えてきた。

20代の頃は、ピアノの演奏とピアノ教師のスキルアップのため、子供は考えていなかった。

しかし、もう30代も後半・・

不妊治療には抵抗があったし、自然に授からないなら仕方ない。

そういう人生も受け入れよう。世の中には子供がいない人も大勢いることだし。

そう思っていた。

しかし、次第になんともいえない寄る辺なさ、虚しさ・・徐々に気持ちが不安定になっていった。

そしてカウンセリングに行った。

カウンセリングの先生のおかげで次第に自分の心に気が付きはじめた。

子供がいなくても良いなんて嘘!子供が欲しい!と。

このままではいけない!まだチャンスがある今なら!

と希望を抱いて不妊治療を決心する。

 

待望の妊娠と子育て

不妊治療は大変だったが、

この経験を何回もされている方が世の中にはいる。

それを思うと私は大変だったなんて言ってはいけないとは思うが・・。

幸いなことに一回の治療で妊娠。

しかし妊娠と知っても、安定期に入るまで両親にも言えなかった。

毎日毎日、お腹の中の子供の大きさを本で眺めながら、日々慎重に過ごした。

そして無事に出産!

小さな小さな娘を最初に抱っこしたあの喜びは忘れられない。

両親もとても喜んでくれた。

そして出産1ヶ月は両親が手伝いに来てくれた。

これが両親と長く時を過ごせた最後となる貴重な一ヶ月となった。

 

自宅でのピアノレッスン

不妊治療と並行して自宅を建設する。

建築会社の「ピアノ教室の奥様のピアノ室」というキャッチコピー入りの我が家の新築見学会の折り込みチラシを見た方が、「レッスンして欲しいんですけど」と見学会に来てくれた。

せっかくのご縁、レッスンをすることに!

その方と賃貸マンションの時から通って来てくれた生徒さんと学童保育の仕事仲間だったお子さんが来てくれ新しい家でのレッスンがはじまった。

最初に来てくれた生徒さんの口コミのおかげで、生徒さんの数も年々増え、ありがたいことに初めの頃は合同で開催していた発表会も今は単独で開催できるまでになった。現在も最初の生徒さんの学区の生徒さんが一番多い。

 

子育て

もちろん近くに子供をみてくれる両親や知り合いはいなかったので、近くの保育園に時間で預かってもらったり、中にはレッスンの間お母様がみてくださったりと、大事な生徒さんと子供との日々を大切に過ごしていった。

子育てでは、毎日音楽を楽しく聴くこと、そしてよく歌ってあげることも大切にした。

そのおかげで、1歳でよく歌うようになった。

ピアノは、これからもずっと弾いていってもらいたいと思っている。大事な親友のように。

 

最後に

誰の人生にも辛いことはありますね。

私自身、幼少期寂しい思いをした分、子供の成長には親子関係がとても大切だということは身をもって実感しています。

誰もが子供には幸せになって欲しいと願っています。

けれど子育てがうまくいかないこともありますよね。

今になって子供と親の両方の気持ちが分かるようになってきました。

 

 

子育ては本当に大変ですね。けれど子供はあっという間に大きくなります。

お子さんとのかけがえのない‘今‘を大切にして、お母様も一緒にピアノと音楽を楽しんでもらいたいと思っています。

それは後に、お子さんにとってもお母様にとっても(もちろんお父様、他のご家族も)すばらしい思い出となります。

そして何よりもピアノを習わせてもらった感謝の気持ちを持った大人に育ってもらいたい、と思っています。

 

ピアノにはその価値があります。

ピアノが弾ける喜びは本当に大きいものです。

長い人生においてピアノが弾ける、ということは、とても大きな支えになりますし、決して裏切らない、親友、宝物、そんな例えもできるものだと確信しています。

ピアノを通して多くの生徒さんとレッスンさせていただきましたが、保育士を目指してレッスンされていた生徒さんが、今度は娘の保育園の先生として働いていて、〇〇ちゃんから、〇〇先生と呼び方も変わり、とても感慨深かったです。

また、小学校の先生になれた、という報告や結婚したという報告をいただいたりすると、親族に感じる喜びに似た感情が湧きます。

レッスンでは、一人一人が自分の子供のように、その子の今を大切に、お母様と一緒に成長をみながらレッスンしています。

そしてその子の良いところをどんどん褒めて伸ばし、明るく前向きな人生を歩んでいって欲しいと我が子同様に願っています。